パラナピアカーバ鉄道博物館 O Museu ferroviário de Parapiacaba

  •  ブラジル パラナピアカーバの鉄道博物館 MUSEU FUNICULAR
  • パラナピアカーバ鉄道博物館 

    O Museu ferroviário de Parapiacaba 

    通称 インクライン博物館 MUSEU FUNICULAR を

    紹介します。

     

    Funicularとは直訳するとケーブルカーなのですが、日本語ならば「インクライン博物館」でしょうか。営業時間はSL列車と同じ。週末の16:00までが基本のようです。

    博物館は、SL乗り場の横から歩いていきます。この写真の右側が大きな跨線橋から降りてくる斜面。真ん中の線路が体験SLが走る線路、そして左側の道が博物館への通路です。入場料は確かSL列車と込みでR$10つまり500円弱だった気がします。

    自分が訪れたこの日は大雨。ものすごい雨の中でしたので、良い写真が撮れませんでした。歩く通路もドロドロです。

    来場者の皆様へ と書かれた紙.「ここはABPFが管理しています」とのこと。

    さて、博物館に入ってみましょう。

    まず掲げてあったのが、

    「Recomendações aos visitantes 訪問者へのオススメ」

    何が書かれているのだろうとみてみると・・・

    na vila 村で
    preserve o patrimônio histórico e arquitetônico
    保存されている歴史的建造物
    evite barulho ou algazarra pois à vila e ocupada por operários quetrabalham em regime de turnos
    都会の喧騒に疲れた都会人が雑音から解放される場所として

    ・・・・とありましたが、その後の na mata 森の中でとしてごみを捨てるなとか危険を避けろだの普通の注意事項が書いてありました。

    隣にはRFFSA のネットワーク図がありました。RFFSA とはRede Ferroviária Federal, Sociedade Anônima 、連邦鉄道ネットワークとでも言うのでしょうか?ブラジル国内の鉄道を国有化しようとした組織で、1957年~1998年まで存在していました。44の鉄道組織を統合し完全国有化しようとしたみたいでしたが、結局うまくいかず解散してしまいました。

    サンパウロ付近にも非常に細かな鉄道網が敷かれていたことが分かります。鉄道網の近代化に失敗したブラジルは、このあと主要交通を自動車へとシフトし、道路整備網の拡充を図ることになります。

    「踏切」あなたは停まることができるが、列車は停まれない、というRFFSA時代のポスター。

    Imigracao 移民 と銘打ったポスター。移民時代と鉄道が紹介されています。何かのイベント用ポスターのようです。

    博物館内部です。様々な展示物が整備されています。

    すみません。知識がなくて何をする機械かわかりません。ケーブルを巻き上げる機器の一部だとは思いますが・・・。

    博物館内部には、往時の衣装で撮影できる場所がありました。ABPFの運営資金になるので、ぜひ、と思いましたが、この日は家族を置いて一人で来ていましたので、一人で写るのも・・・とやめてしまいました。

    上の機械を反対から見たところです。

    レール、ポイント、継ぎ手、そしてケーブルやそれに関わる機器を修理していた様子がわかります。

    おお、HOゲージの鉄道模型レイアウトがありました。ブラジルでこれは貴重だと思います。というのもブラジルでは「模型店」というものを見たことがなく「どこかに鉄道模型店があるのかな」と思いそれとなく探してみましたがよくわかりませんでした。

    これがインクラインの心臓部の展示。レールの間にワイヤーが通っていて、これが列車を引き上げる仕組みです。

    列車を引き上げるにしては、細いワイヤーに見えますが、ワイヤーだけ太くても引き上げるのが難しくなるのでこれが適当な大きさなのでしょう。

    横から見た様子。

    なんだろう。溶接機の類でしょうか?

    一見、ガイコツ?と思いましたが、なんのことはない古いモーター類です。

    これが巻き上げ機の本体。これは旧線 (Serra Velha:セーハ・ヴェーリャ)で使われていたものです。

    大きなシリンダーが2本。その真ん中に、巨大なフライホイールがあります。

    港町サントスまでの間にこうした巻き上げ機が旧線で4区間、新線で5区間に分かれてあったようです。一機の出力は1000hp.でも実際には最大でも951hpだったという資料もどこかで読みました。

    そしてフライホイールから伸びた鋼鉄ケーブルの先には・・・

    旧線用のブレーキ車「Serra breque セハブレーキ」が繋がっています。

    この「Serra breque セハブレーキ」が列車編成のかなめになります。下りの時は先頭に。登りの時は最後尾につき、列車の登坂を助けるのです。

    この木造の「Serra breque セハブレーキ」は旧線用。新線用には動力のついたものが使われました。というのも5つに分かれたセクションを通過するのに、それぞれブレーキ車を付け変える訳ですが、ブレーキ車が自走できるとその効率は劇的に向上するからです。

    旧線が開通したのが1867年。もちろん開通時の車両ではないと思いますが、この車体も古いはずです。木造ですが、大切に保管するために屋根を設けたことが分かります。

    120tもの列車を支えるために台枠をさらに補強してあります

    車体は可愛いのですが、下回りが頑丈にできていることがよくわかります。

    これが旧線用の巻き上げ機械棟の全体図。正式には

    4° CASA DE MAQUINA para Serra Velha (旧線用 第4機械棟)と言います。

    かろうじて4° MAQUINAと残っています。MAQUINAマキーナとは英語で言うMacine(マシーン)のこと。つまり単なる「機械」という意味です。穴があいて朽ち始めていますが、旧線の開通が1867年なので、この建物もかなり古いと思われます。

    なぜ4番なのかと言いますと、旧線 Serra Velha セーハ・ヴェーリャは、4つのセクションに分かれて、ケーブルを引っ張っており、海から数えていくとこのパラナピアカーバのものが最終の4番目だったから。言いかえるとスキー場のリフトにしたから順番に支柱に番号がついているのと同じことです。これが新線は5つのセクションに分かれていますので、ここにあるのが、第5号機、ということになります。

    さて、今度は新線の展示物を見に行きましょう。全然関係ないのですが、カンポス・ド・ジョルドン Campos do Jordão というサンパウロ州のちょっとした避暑地のポスターがあったので紹介。(この町にも行ってみましたが、保存鉄道が走っていました。いずれまた紹介します)

    それでは新線の第5機械棟 5°CASA DE MAQUINA周辺を見てみましょう。新線の開通は1900年ですので、この建物も100年以上前のものだと思われます。

    大きなフライホイールもありました。ではこの中を見てみましょう。

    新線のインクラインシステムが廃止されたのが1982年。まだそれほど、時間はたっていませんので、新線用のいろいろはそれなりにきれいです。中には車両が展示されていました。

    おお、蒸気機関車が展示されています。

    車軸配置は4-4-0。日本で言うならB型のタンク車。

    ゲージは1.6m。ここで使われていたものです。

    解説がありました

    「機関車」 サントス-ジュンジャイ線の初期の蒸気機関車。本線および入れ替え用。イギリス、シャープ&シュツワット社sharp.Stewart & co。 1962年製 No15

    これも体験用SLと同じメーカーだったんですね。システムも車両もイギリス製ばかりです。

    丁寧な作りの二軸客車ですが、作りからしてかなり初期のものに見えます。なんだろうと思い解説を見ると・・・

    「御料車」皇帝ドン・ペドロ二世が使っていた御料車。けん引していたのはNo15の機関車。1879年ブラジルで製造。サンパウロ鉄道所有。

     おおお、皇帝陛下の車でした。しかも機関車15番といえば、上の機関車です。つまりこの2両セットで「お召し列車」ということのようです。

    では、このちょっと凝った作りの木造客車は何だろうと思うと

    「霊柩車」

    葬儀に使う車両。1907年。ブラジル・サンパウロ製。サンパウロ鉄道所有車。

    今度は霊柩車です。よく見ると内部にはベッドらしきものが。カトリック教徒が大部分を占めるブラジルでは、今も土葬することも多くあります。・・・きっといろいろな場面でこれが必要になった、とのことでしょうか?

    かわいい蒸気機関車もありました。

    イギリスのカー・スチュアート・アンド・カンパニー Kerr, Stuart and Company 製。石炭運搬用蒸気機関車。1907年製造。軌間は0.6m とのこと。おお!このカー・スチュアート・アンド・カンパニー といえば、後述のロコブレーキを製作した会社です。

    よく見ると、1.6mのレールの中に、0.6m軌道がありました。

    細かな解説を忘れてしまいましたが、ケーブルを敷設するのに使った車両のようです。

    蒸気機関車の動輪でしょう。緑色の塗装が謎ですが。

    機関車用動輪。直径914mm。材質、鋼鉄。

    見れば分かるような・・・。

    外はこんな感じです。

    SL列車から見た風景です。巨大な巻き上げ機に蒸気を送るためのボイラー室だったと思われる場所があります。

    給水のための水タンクだと思われます。

    周辺はかなり荒廃していました。「1982年に廃止された」ときくと、蒸気機関の歴史からすると最近のように感じますが、既に30年以上も前です。その間、何のメンテナンスもしていないとすれば、こんな感じになるのでしょう。

    ボイラー棟と思われる場所。こんなに霧が多く、湿度が常に高い場所に30年も放置しておけばこんな姿になっても仕方ないです。

    おそらく新線用のフライホイール。旧線は「テールエンド」式の巻き上げ方法だったのに対して、新線は「エンドレス」方式だったようです。つまり、上げ下げが常時行われていたとのこと。ケーブルはフライホイールに4回まいてあったそうです。

    博物館に掲げてあった写真です。係のお兄さんに「ネットで紹介しても良いですか?」と言ったら、「こんなモンでよけれはどーぞ」と言われたので、紹介してしまいます。かなり劣化していますが、それなりに貴重な写真だと思います。

    上の写真の解説です。

    1950年の5月。土曜日の午後。0.6mゲージの線路をドイツのヘンシェル製の2-4-2の車軸配置を持つNo4機関車が、サンパウロ市のタマンドゥアティ駅Tamanduateíを出たところです。これからセーハ・ダ・カンタレイラSerra da Cantareiraに向かいます。この橋は1888年に作られました。

    この写真は・・・

    インヴィルナダ Invernada駅で、パラダパノParada Pano駅行きの4号機関車を、15号機関車が交換待ちをしています。1956年。

    1907年3月。ソロカバ駅にて132号機関車。アメリカ・ボールドウィン製3406型です。

    アメリカ・ボールドウイン製 No6号機関車。(あとはボケてて読めません・・)

    1950年5月。1号機関車。サンパウロ市のタマンドゥアティ駅Tamanduateí にて。

    ・・・解説がありませんでした。詳細不明です。

    同じく解説なし。

    では、車庫の中の目玉。新線 Serra nova セーハ・ノーバで使われていたの Locobreque ロコブレーキ を紹介します。

    これらは全てイギリスのカー・スチュアート・アンド・カンパニー Kerr, Stuart and Companyで製造されました。この会社は顧客の事情に応じ、全ての軌間の機関車をオーダーメイドしてくれるので、世界中に様々なタイプの機関車が存在していました。新線ができた1900年から活躍しています。基本的には、旧線用のブレーキ車+簡易蒸気機関車ですが、この車両により運用が格段にやりやすくなったそうです。

    この会社の社史のような資料にも、SPR (São Paulo Railway) and later EFSJ (Estrada de Ferro Santos a Jundiaí)'s 5 ft 3 in (1,600 mm) gauge mountain cable incline between Paranapiacaba and Piaçagüera. 「パラナピアカーバと、ピアアグエラを結ぶサンパウロ鉄道(SPR)とその後のサントスージュンジャァイ線(EFSJ)の1.6mゲージにおけるインクライン鉄道用機関車も製造した」と書いてありました。やはり製造会社にとってもこの車体は世界でも類を見ないものだったようです。

    サントス-ジュンジャイ線 EFSJ (Estrada de Ferro Santos a Jundiaí)の14号機の銘版。

    100年以上前の車両ですが、この状態でいるということは、かなり丁寧に整備されていることが伺えます。

    こちらのロコブレーキ車も少し整備すれば走りだせそうな感じ

    というか、整備中の機関庫をそのまま見学できることに感動を覚えます。適当と言うか、自由と言うか・・。すごく嬉しいです!

    足回り。斜めにシリンダーがあって、メインロッドが見えています。整備性も向上しているようです。

    きっと何かの作業の途中なのでしょう。

    何かの資料には「6両が保存されている」とあった気がするのですが、車庫の中には4両のロコブレーキ車が保管されていました。あと2両はどこだろう?

    直径は小さいですが、6両引く程度なのでこれで十分なのでしょう。

    運転席も覗けそうな感じ。(見たかったけど・・・やめておきました)

    一部尻尾が外に出ています。そこだけは風雪に耐えている様子がうかがえます。

    整備用ピットは今でも使えそうな感じ。

    というか、体験用SLの車庫 兼 整備場として使っているようです。

    システムに使われたケーブルは、円周5¼インチ。麻の芯の上に6本の撚り線で補強し、120tの荷重に耐えられるものだったそうです。

    旧線用の機械棟の裏には、現在の路線が。ちなみにこの路線は旧線のラインをほぼ使用しているそうです。

    4号棟の後ろには、救援車両が。

    なかなかこんな車両を見かけることもありません。

    思うと、列車の脱線事故なども多数あったのかもしれません。

    SL列車から見た5号機械棟。

    銀色の近代的な客車がありました。

    SL列車からみた新線用の5号機械棟。

    歩いていくとこんな感じです。

    入口の看板には「サントス-ジュンジャィ鉄道の所有物です」と書かれていました。

    この奥の車庫には、100年の時間と共に宝の山が眠っていました。

    5号機械棟のウラです。

    木造の荷物車?が展示(放置?)されていました。

    全ては霧の中・・・。

    今もゆっくりゆっくり時間が流れている場所です。

 

パラナピアカーバ鉄道博物館
O Museu ferroviário de Parapiacaba

  • 【MUSEU FUNICULAR】

  • ブラジル サンパウロ州 にあるパラナピアカーバは南米の最大都市サンパウロと、直近の港町サントスを結ぶ鉄道都市です。なぜこの地に鉄道都市ができたかというと、ここが急峻な勾配の上部にあたるのです。日本でいえば、長野県軽井沢町軽井沢駅と群馬県安中市横川駅の、軽井沢駅のようなものです。
  • サンパウロ-サントス間は60km程度しかないのに、サンパウロ市の標高が800mあります。
    文献を探していくと、正確には「7マイルの距離を2625フィートあがる」つまり「11kmで800m上がる」のだそうです。
  •  現在は高速道路が人とモノの動脈となっていますが、
  • 当時、鉄道が輸送機関の主役でしたので、ここの勾配の克服が必須条件でした。
  •  そこでここを敷設したイギリス資本のサンパウロ鉄道は、Funicular:ケーブルカー、日本語ならばインクライン軌道によってここの輸送を行いました。その様々な遺構が、いくつかのこされていて、それが公開されています。

【英国人技術者 

ダニエル・マキンソン・フォックス】

このケーブルカー・システム (システマ・フニクラール Sistema funicular)を構築した最大の功労者が英国人の26歳の若き技術者、ダニエル・マキンソン・フォックスDaniel Makinson Foxです。彼はすで北ウェールズで狭い鉄道を敷設し建設するのを手伝っており、多少の警官があったことと、ピレネー山脈の鉄道のために土地を調査するために、スペイン語を習得していたため、彼ならポルトガル語圏のブラジルでも意思疎通できるだろうと考えたためでした。

 ブラジルに到着した彼は、この斜面が、難攻不落の絶壁のように感じ、たとえようもないほどの失望感に襲われたとの記録が残っています。しかし、かれば鉄道建設にベストなルートを、未開の森の中を丁寧に歩き回り、探し求めました。現地の案内人と共に、何度も何度も山に入り、鉄道が敷設できそうなルートを探しました。こうして月に一度は海岸山脈を上り下りしていましたが、ある日、ようやくある尾根がぱっくりと避けている場所を見つけました。この場所が、いわゆる旧線が走っている場所です。

・・・現在、彼の名前は文献の中にしか見えないのですが、ブラジル、いや南米の発展に彼が果たした役割は大きくもっともっと評価されてよい人だと思います。


【インクライン FUNICULAR】

フォックスが考案したのは、上部に動力を設置し、そこからのケーブルで引き上げる方式、システマ・フニクラール Sistema funicularでした。

この博物館には、それらが実際に使われていた様子がそのまま残っています。

 ここでは旧線と新線の2本のシステムが残されています。ちなみに現在は、日本の丸紅が主体となって、日立製の電気機関車などを利用した「アプト式」が使われています。


【海岸山脈 Serra do Mar セーハドゥマァ】

パラナピアカーバを語る際に避けて通れないのが、海岸山脈の存在。なぜ、海岸沿いに、壁のように立ちはだかる山脈ができたのかというと、2億年ほど前に、ゴンドワナ⼤陸が分裂をはじめ、南⽶、アフリカ、南極⼤陸などのプレートに分かれた際に ⽣まれた歪みが山脈になったと考えられています。南アメリカプレートが⻄方向に移動して太平洋プレートにぶつかり、南⽶⼤陸の⻄端にアンデス⼭脈が隆起したのですが、その際、南アメリカ⼤陸の東端部分も、同様に⻄⽅向に推された⼒で盛り上がり、その結果、海岸⼭脈が⽣まれたと考えられています。尚、現在でも30万年に25mの割合で隆起しているといいますので、まさに生きた地球の営み、とも言えるかもしれません。もちろん、こまごまと生活している人間からすれば、それは非常に厄介なことにもなり、この場所のような仕組みが必要になるわけですが。


【サッカー大国 ブラジルの発祥地?】

「パラナピアカーバのイギリス人町には、イギリスからの文化が持ち込まれた。サッカーもその一つで、ここに住んでいたイギリス人達が広場で始めたサッカーがブラジルでのサッカーの発祥と言われている」との記述を見つけました。実は、行けなかったのですが、ここの町の高台にあるサッカー場の説明板には「セラーノ・アトレチック・クラブは1903年にパウリスタサッカー連盟に加盟した」とあるそうです。そもそもフルサイズのサッカー場が作られたのはここがブラジル最初だったとも言われています。そもそもブラジルでの一般論として、「ブラジルにサッカーをもたらしたのは、チャールズ・ミラーという英国人」と言われています。スコットランド出身の鉄道技師の長男として1874年にサンパウロで生まれたミラーは、9歳の時に英国式教育を受けるために南イングランドの寄宿学校に送られたのですが、その学校にいた十年間のうちに、彼は南イングランドで有数のFWとなり、同時に地域のサッカー協会の役員としても活躍したそうです。そして1894年にブラジルに帰国し、そこからブラジルサッカーの歴史が始まったと言われています。そして、そのミラーの父は、ここサンパウロ鉄道のお抱え技師でした。つまりこの鉄道もサッカー大国ブラジルの誕生に大きく関わっているといえるでしょう。