パラナピアカーバの鉄道町  概要

  •  ブラジル  パラナピアカーバ の鉄道遺産




 

 

  • パラナピアカーバの象徴的な時計台と近代的なアプト式のシュタッドラー He4/4形電気機関車。

    跨線橋から見たサントス方面の様子。右側が現在も使っている線。真ん中奥が鉄道博物館。左手には現行の貨物と廃棄車両があります。

    博物館内部にここの紹介地図がありました。

    ポルトガル語だと分かりにくい気がするので、勝手に訳をつけました。あっているかはわかりませんが。

    凡例の部分です。

 

 

  • Parte Alta(上部)または、Vila Alta(上の町)と呼ばれるエリア。現在の街の機能はほとんどここにあります。

    「上の町」には主にポルトガル、スペイン、アラブ系の移民が住んでいたようです。それに対し、線路と同じ平地にはイギリス系の鉄道関係者が住んでいました。

    Parte Alta(上部)または、Vila Alta(上の町)から見た下の町。いかにも鉄道で発展した町、と言う感じです。

    Parte Alta(上部)または、Vila Alta(上の町)の歩道。今は寂れて単なる山間の街にすぎなくなってしまいました。

    Mercadinho とは小さな市場。まぁ、簡単にいえば単なる商店です。

    駅と操車場全景です。真ん中に見えるのが時計塔。かつての旧駅舎にあったイギリス製の時計を移設したとのこと。

    これが町を横断する跨線橋。自由通路になっていて、いつでも誰でも渡れます。真っすぐ行けば、下の街のエリア、左側の斜面を降りるとSL乗り場、博物館になります。

    こんな感じで、バイクの人達も押して跨線橋を渡っています。もしここを通らないとすれば、数キロ南に移動して、長大な踏切(下で紹介します)を渡らなくてはならないので、上の街にいくためにはここを通るのが一番なのです。

    そうそう、パラナピアカーバは”霧の街”と言われています。海岸から吹く風が、ここで一気に上がってくるため、常に霧に包まれる状態になりやすいのです。(これも、霧が多い軽井沢と同じ状況です)

    「上の街」から「下の街」へは車が通れる道が通じていません。そこで、車で行く場合、かなり手前から線路を横切る必要がでてきます。下の地図の踏切を渡ると「下の街」に行けます。

 

 

 

現在の運行会社MRSの機関車が出発準備をしています。

左側の架線付きの線路は、現在は営業を休止してしまっているサンパウロ都市近郊路線CPTMの線路。この写真は踏切の真ん中で撮っています。

これがCPTMの線路。こんなに整備してあるのに使わないのはもったいない・・・。

この踏切は操車場の途中。大型機関車も右往左往?していて、とても楽しい場所です。

ちなみに、この機関車はサンパウロより内陸専用のいわば「上の機関車」。海岸方面までは行けません。とにかく勾配が急すぎるので、「上の機関車」「下の機関車」と分けておいて、その間を、この峠の特殊なシステムを使って貨車・客車だけを上下する方式になっています。

輸送される物資は様々。鉱物資源が豊富なブラジルですので、鉄鉱石、鉄鋼なども大量に輸送されています。

踏切の途中にて。堂々たる貨物列車です。サンパウロ州の隣、ミナスジェライス州(MG)は鉱物資源の宝庫ですので、そこからの鉱石列車などが多数運転されているようです。

 

さて、「下の街」の様子を見ていきましょう。霧の中の探索ですが。

この引き込み線はメンテナンス向上に向かう線との事です。この先にイギリス人技術者の家などがありました。でも霧の赤のため、良い写真が残っていません・・。

このパラナピアカーバは、サンパウロの台地側の終点ですので機関庫がおかれていました。機関車が常に大量に出入りしていた場所ですので様々な遺構が残っています。広場には車両を整備する点検台も残っていました。

ターンテーブルもあります。さびだらけですが、現在も使用できる程度には維持されています。

ポイント切り替え機。霧だらけの非常にさびやすい環境ですが、それなりに整備されていて、今も時折使われている様子がうかがえます。

Antigos galpões do SENAI Ferroviario とは、SENAI鉄道の古い倉庫群、という意味。

かつて荷物車が荷降ろしをした場所だと思われます。

これが跨線橋を渡りきった場所にある食堂・商店。現在パラナピアカーバは、海岸山脈のトレッキングのスタート地点となっており、鉄道町だけでなく、トレッキング目的の観光客を呼び寄せようとしています。ここはきっとそんな人達用のお店なのかも。

上に通っているのが、自由通路になっている跨線橋。人が歩いているのは、体験SLが走っている線路のとなりです。一応、一般は立ち入り禁止っぽいのですが、そんなことはどーでもいいブラジルですので、歩きたい人は歩いていい場所のようです。

ここが博物館側から見た体験SLが走る線路です。

跨線橋からみた博物館方面。上の写真と反対の位置から見た様子です。

ここが博物館。かつての巻き上げ装置があった場所がそのまま博物館になっています。手前が新線用の5号機。奥が旧線用の4号機です。

博物館側からみた駅方面。鉱石を積むホッパー車が連なっています。

体験SLの客車と、今は使われていないパナナピアカーバ駅のホーム。客車のとなりの道は博物館へ向かう移動路です。

  • では、車でここまで来る場合の標識を見てみましょう。

    どこかで見かけたパラナピアカーバの看板。ちゃんと史跡マークがついています。

    海岸山脈に近づいてきました。ひとつ前のヒベイラン・ピレスRibeirão Pires の町の入り口です。

    さあ、パナパピアカーバのある町、ヒオ・グランデ・ダ・セーハ Rio Grande da Serraに着きました。

    パラナピアカーバは一応、史跡・観光地なのでこういった看板も整備されています。ただし、劣化していてよく読めないのが残念・・・。

    帰り道に見たCPTM10号線。正直言って、治安は良くないです。利用の際はお気をつけて。

    現在の事業者MRSの看板。貨物列車運行会社です。

    旧パラナピアカーバ駅前の「関係者以外駐車禁止」の看板

 

 

 

パラナピアカーバ Paranapiacaba

  • 【はじめに】

  • ブラジル サンパウロ州にあるパラナピアカーバは19世紀から続く急斜面を克服するための鉄道町として有名です。南アメリカの最大都市サンパウロと、サンパウロに最も近い港であるサントス間は、直線距離で僅か60kmなのですが、標高差はなんと800m。その急峻な片勾配を物資も、人員も輸送していた流通の輸送のかなめとして、イギリス人がこの鉄道町を作りました。よって”英国町” Vila Inglesa ヴィラ・イングレーサなんて別名で呼ばれることもあるそうです。

  •  ここには急勾配を克服するための様々な施設が作られ、その一部が今も博物館として保管・公開されています。なおパラナピアカーバとは、トゥピー・グアラニー語で「海が見えるところ」とのこと。気候の関係で霧の日が多いのですが、たしかに台地の先端の絶壁にある場所なので晴れれば海が見える場所なのでしょう。
  •  この場所を日本で言うならば「東海道線の箱根超え」を「信越本線、横川-軽井沢間のもっとスケールの大きなもので動かす」といった感じでしょうか?現在は物流の主流を自動車に譲り、日本の丸紅が主導してシステムを構築したアプト式の新線をスイス製と日立製の電気機関車が、鉱物や農産物を積んだ貨物列車のみを牽引する路線になっていますが、100年以上も前に、急こう配に挑んだイギリス人技術者たちの意地と技量を、赤さびた機械達が静かに伝えています。

【サンパウロ鉄道 

São Paulo Railway Company】

ブラジルは、面積が南米大陸のおよそ半分を占め、人口も2億人以上と南米最大の国です。そしてかつては世界最大のコーヒー生産地でした。その中でもサンパウロは気候もコーヒー栽培に適していたため、長らく世界最大の生産地として君臨し、世界のコーヒー市場を支えてきました。 しかし、サンパウロには大きな問題がありました。主要港であるサントスとの間に、Serra do Mar(セーハドゥマァ:海岸山脈)という急峻な斜面があるのです。その高低差は「7マイルの距離に2,625フィートの高さ」、言いかえると11kmの距離に800mの高低差があるというとんでもない斜面でした。
 この急斜面にいかに鉄道を通すべきか・・・。この問題に取り組んだのはブラジル政府ではなく、ブラジル最初の鉄道、Mauá鉄道を敷いたイーニー・エヴァンジェリスタ・デ・ソウサ Irineu Evangelista de Sousaでした。 1859年、彼はスコットランドの鉄道技術者ブルンレーズBrunleesに「予算は20万ポンド以内でこの坂を行き来する鉄道敷設は可能か」と問いました。ブルンレーズはすぐに現地を視察。そして「困難ではあるが、実現可能と判断」し、鉄道建設が始まったのです。

 実際のプロジェクトのリーダーとして派遣されたのは若きエンジニア ダニエル・マキソン・フォックス Daniel Makinson Fox。まだ26歳の若者でした。フォックスは試行錯誤を重ね、坂の上に大きな巻き上げ機を設置し、ケーブルをつないだブレーキ車に他の車両を連結し上げ下げする、という鋼索鉄道(日本語ならばインクライン)、ポルトガル語でSistema funicular:システマ・フニクラール と呼ばれるケーブルカーシステムを、軌間が5フィート3インチ(1.6m)での軌道敷設で考案しました。このケーブルカーとは、日本で考えるような簡易なものではなく、標準軌以上の1.6mという広いゲージの普通鉄道の真ん中にケーブルを通し、専用の車両を坂の谷側に配置し、普通の客車や貨車を引き上げると言う大掛かりなものでした。

 実際の工事にあたっては、この岩盤は非常に脆く、工事はダイナマイトなど一切使用せず進めることができたようです。トンネルもありませんが、その代わり23万立法メートルもの土砂を使い大規模な盛土で軌道を築きました。何本か大きな高架橋も設置しました。

こうして当初「9年間で建設する」と約束されたサンパウロ鉄道ですが、8年の歳月をかけて予定よりも10カ月も早く1867年2月16日に開通しました。ここで運搬されたものは、石炭、機械、綿、モーターカー、ジュート、塩、砂糖、各種フルーツ、肉、木材、穀物、コーヒー、銅、そして多くの人々・・など多岐にわたりました。


【3つのエリア】

サンパウロ鉄道が開拓した海からサンパウロまでの鉄路は大きく分けて3つに分けられます。

①サントスsantos から クバタンCubatãoのピアサグアラPiassagueraまでの平地。標高2mのサントスから、標高4mの クバタンの平らな部分。12マイル(19km)の道のりです。

②ピアサグアラPiassaguera から、アルト・ダ・セーハAlto da Serraまでの7マイル(11.5km)の急峻な坂路。795mの標高差があります。ちなみに、アルト・ダ・セーハとは、「丘の上の地」の意味。これが現在のパラナピアカーバつまり、改名前のこの場所です。

③ アルト・ダ・セーハAlto da Serra(=パラナピアカーバParanapiacaba)から、サンパウロまで。ここも標高差はあまりありません。30マイル(48km)あります。ただし谷あり川ありで鉄道敷設はそれなりに大変だったようです。

3つのエリアの合計は49マイル(78.5km).所要時間は2時間弱だったそうです。


【フォックスが考案したインクラインシステム】

のちに旧線(Serra Velha:セーハベーリャ)と呼ばれることになる最初に作られた路線は、傾斜10.3%。鉄道用語でいうと103パーミルになります。日本での最大傾斜は、通常の粘着式では箱根登山鉄道鉄道線の80パーミル、アプト式まで入れると大井川鐵道井川線の90パーミルですので、本線軌道として整備されるこの路線の急勾配の大変さが分かっていただけるかと思います。フォックスはその間を更に4区間に分けてインクラインを設置しました。
セクション1:1,781m(5,843フィート)
セクション2:1,947m(6,388フィート)
セクション3:2,096m(6,877フィート)
セクション4:3,139m(10,299フィート)

このそれぞれに、大きな固定式巻き上げ機と、セハ・ブレーキ Serrabreque と呼ばれるブレーキ車を設置し、下りの時にはその先頭に、登りの時は最後尾に連結し安全を確保する、という方法を採っています。


【最大重量】

インクラインシステムで運用できる列車の平均重量は120tでした。基本は機関車1両+貨車・客車が6両だったようです。機関車で31t、貨客車で89tと分けられていたようです。


【4つの時代】

この鉄道の山岳部分は、構造的・機構的に大きく以下の時代に分けることができます。

 

①前期のインクラインシステム時代 

1867年2月~1900年

のちに旧線 Serra Velha セーハ・ベーリャと呼ばれる一番初期の路線です。8.5kmの区間を1,781m、1,947m、2,096m、3,139mの4ブロックに分け、鋼鉄ケーブルを牽引する蒸気機関のパワーユニットを4基配置し、⾞両をバトンタッチしながら上げました。最大傾斜は103パーミル。セハ・ブレーキと呼ばれる動力なしのブレーキ車を谷側に連結し、6両の車両を連結してうんようしていました。

 

②後期のインクラインシステム時代

1900年~1982年

増大する需要に応えるために1900年から運行を始めたのがいわゆる新線 Serra Nova セーハ・ノーバと呼ばれる新しいインクラインシステムです。1895年から建設が始まり5年後に運用開始となりました。最大の相違は、今まではケーブルを単に巻き上げるだけのタイプだったのに比べ、今度は上下をバランスを取るために、反対側にも必ず何かを動かす方式に改めた、ということです。旧線のロープ運搬システムはTail-End テールエンドシステムと呼ばれ、新線のロープ運搬システムはEndless Ropeエンドレスロープシステムと呼ばれました。5本の列車が上昇していれば、同時に5本の列車が下降している、ということです。日本の観光地のケーブルカーと同じと考えれば分かりやすいかもしれません。また分かりやすい変更点とすれば、ロコブレーキLocobrequeと呼ばれる動力付きブレーキ車を導入したこと。新線は10.5kmの区間を5つのセクションに分け、勾配も85パーミルとなだらかにしました。相変わらずそれぞれの区間ではケーブルからの着脱が必要でしたが、英カー・スチュアート・アンド・カンパニー Kerr, Stuart and Companyに依頼して製造してもらったこのロコブレーキ車の導入により、その狭間を列車を自走させて次につなぐことができるようになったので、効率が非常に上がったそうです。1区間の所要時間は僅か9分。7分半が動作で、1分半でケーブルの組み換えをしたそうです。また電気的に各パワープラントと列車が繋がれ、円滑な情報連絡システムができているのも特徴です。

 

③日立製アプト式時代 1974年~2012年

蒸気機関によるケーブル牽引式のインクラインシステムを廃止し、ラックを利用したアプト式に変更した時代です。設計は日本の商社「丸紅」。1969年に受注し、日立製作所が施工したそうです。日立はスイスの機関車メーカーSLMの技術供与も受けつつ製造した大型ラック式電気機関車2000形を導入。重連で列車を牽引していました。ここの路線は、いわゆる旧線の路線をもとに、直流3000V電化で幅60mmのタングステン鋼製ラックレールを3条を使用し、最急勾配104パーミルだったそうです。日立製の電気機関車は1972年から1990年にかけて計14機が導入されましたが、1981年には入換・工事列車用として同じく日立製のラック式電気式ディーゼル機関車3機が導入されたそうです。

 実は大きな事故もありました。開通式は1974年1月17日だったのですが、その3月に500tを超える貨物列車の試験運転の際に事故が起こり、ブラジル人機関士2名が亡くなったそうです。ブラジルが軍事政権下にあったので、ほとんど表に出なかったそうです。

 

④シュタッドラー製アプト式時代  2012年~現在

輸送力増強、省電力を目指して、電気機関車を、スイスのシュタッドラー社 Stadler Rail AG の シュタッドラー He4/4 (Stadler He 4/4)

に変更しました。電気機関車7両とオプション3両で6000万スイスフラン(約66億円)だそうです。シュタッドラー社は、日立の2000型のラックシステムに技術協力したスイスの機関車メーカーSLMを買収していましたので、技術的な継承も全く問題なく行われました。

2012年より納入されています。

 


【所在地】

ブラジル連邦共和国 Brasil サンパウロ州 São Paulo

サン・アンドレ市 Santo André 市の南端にあります


【ここへのアクセス】

かつてはサンパウロと海岸を結ぶための鉄道駅だったのですが、今はその路線に乗車できません。ただし乗り継げばいくことはできます。

「公共交通機関の場合」

 都心からならばメトロのブラス駅からCPTM(サンパウロ都市圏鉄道会社) 10号線の終点「 Rio Grande da Serra」ヒオ グランジ ダ セーハ駅下車。何年か前まではここまでCPTM10号線が来ていたのですが、利用客がほとんどないために、ここまでの運行は休止され、その手前までの運行になっています。
その後、バスに乗り換え、No.424路線 終点Santo Andre (Paranapiacaba) バス停下車です。

※可能であれば一番のお勧めは、毎週日曜日にサンパウロ市中心部のLuz駅から、CPTMが運行するExpresso Turístico エスプレッソ・トゥリスチコ という観光列車に乗ることです。50年代のレトロな車両で48キロを1時間半かけて運行している・・・との話を聞きました。「隔週らしい」との話もありますが詳細は分かりません。ぜひご自身で確認されることをお勧めします。

「自動車の場合」

サンパウロ市内から、とにかく Rio Grande da Serra市を目指す。(主には①BR-050、② Rod. dos Imigrantes、③ Av. do Estado

を通る3ルートがあると思います)地図的にはAv. do Estadoが分かりやすいのですが、時間的には①BR-050が早そうです。Rio Grande da SerraからはSP-122号線で1本で、間違えようがありません。途中で標識も何度か出てきます。
※ご存じのようかなり治安が悪いブラジル。駐在日系企業では「危険防止のため鉄道・バスには乗らないこと」と指示している会社も多くあります。ここは鉄道+バスで行けなくはない場所ですが、ここはおそらく在住日本人でも乗車をためらう路線だと思います。よってもし本当に普通の日本の方がここまで行かれるならば、現地旅行社(例えばTrendy Turismo あたり)に依頼して専用車を出していただいた方が安全だと思います。


【自分の訪問と撮影時の天気について】

 3年ほどブラジルに仕事で駐在していた自分は、「話に聞いていたパラナピアカーバに行きたい」と思っていましたが、なかなかその時間が取れませんでした。またパラナピアカーバについての情報もほとんどなく、なにかどこにあるのかも良くわからない状況でした。(自分で言うのもナンですが、今現在、パラナピアカーバに関する日本語サイトとすれば、おそらくこのサイトが一番詳しいと思います(笑))

 結果的に半日ほど時間が取れたのが2013年の1月。とりあえず車のナビに町の名前を入れてサンパウロの自宅を出発しました。ナビが示したのは、現在も1000人ほどが住んでいる「上の町」。サンパウロの中心部から40kmほどですので、2時間弱で着いたのですが、着いた途端、まわりは霧だらけで何も分かりません。車を駐車場らしき場所になんとなく停め、歩いていくと霧の中から町が出現しました。そしてその霧の中には時計塔と操車場が出てきて、なんとも幻想的な鉄道町が現れました。「博物館とSL列車があるらしい」との話は聞いていたのですが、霧の中歩いてみても、結局よくわからず、とにかく写真を撮って帰りました。
 2度目の訪問は、ほぼ1年後の2013年12月。今度は博物館とSL列車の情報も手に入れ、無事に両方体験することができました。ただしこの日の天候は雨。しかも、一眼レフカメラが防水対応で良かったと感じるほどのザンザンぶりの大雨。ですので写真としてはあまりよいショットが撮れていません。雰囲気だけでも味わってもらえればありがたいです。